「正義」を語る自分も、結局は業が深い件

45歳の再出発

バスの窓から眺める、無機質な背中たち

毎朝、通勤バスの窓ガラス越しに、私はぼんやりと外を眺めています。

駅へと吸い込まれていく、全く同じ色のスーツを纏った背中の連なり。それはもはや、生き物としての意志を感じさせない、無機質なシルエットの塊に見えて仕方がありません。横並びで歩き、同じリズムで足を動かし、同じ方向へと流れていく。まるで誰かが設定した「プログラム」を、粛々と実行しているかのようです。

かつては、私もその「消え入りそうな記号」の一つに過ぎませんでした。周囲と同じリズムで歩き、同じ方向に顔を向けていれば安心だと思い込んでいたのです。ですが、7年というブランクを経て社会復帰した今、一歩外れた場所から世の中を眺められるようになりました。

そこで私が行き着いた結論は、極めてシンプルなものです。人間は、3つの「天秤」のどれで物事を判断するかで、その本質が決まる。そう思っています。

「好き嫌い」という、最も数が多い判断基準

最も数が多く、最も「愚策」だと感じるのが、物事を「好きか嫌いか」という感情だけで判断する層です。

こうした私情を優先する人間は、結局のところ、自分が作り出した「感情の檻」に閉じ込められているに過ぎません。隣の人間に腹を立て、数分の遅延に憤慨し、それだけで貴重な一日のエネルギーを使い果たしてしまう。私から見れば、それは「判断」ではなく、環境に対する単なる「反応」に過ぎないのです。

もちろん、感情は人間である証拠です。ですが、感情に支配されたまま生きることと、感情を自分で扱うことは、全く別の話だと思っています。

「利害」という、冷徹な生存戦略

次に多いのが、物事を「利害」で判断する層です。

私自身、45歳で社会復帰し、往復3時間の過酷な通勤をこなしている現状は、決して情緒的な理由からではありません。今の生活を維持し、次なる自由へと飛び移るための「踏み台」を確保するという、冷徹な利害の一致に基づいた戦略です。好きでも嫌いでもない仕事を続けているのは、それが今の私にとって最も合理的な選択だからに他なりません。

損得勘定を研ぎ澄まさなければ、不条理な社会構造という荒波に飲み込まれて消えてしまう。それは「悪」ではなく、この世界をサバイブするための必須の「作法」なのです。綺麗事だけでは、生きていけない。それが45歳のリアルです。

「正義」か否かという孤高の指標

そして最後が、物事を「正義か否か」で判断する層です。利害を超え、損得を捨ててでも、「それは正しいことか」を問う。私が「後者でありたい」と願うのは、この領域です。

例えば、息子が選んだ「全内定辞退」という道。将来性の高い企業からの内定という「利害」を捨ててでも、「自分を偽って群れに加わることは正義ではない」という自分の軸を通しました。その遠回りは、利害の天秤では測りきれない尊さを持っています。

正直なところ、「もったいない」と思う気持ちが全くなかったと言えば嘘になります。ですが、彼が「利害」ではなく「正義」で選んだその決断を、私は静かに尊重するしかありませんでした。

天秤を語る「表現者の業」

真の「正義」を貫くためには、時に社会という化け物と渡り合う冷徹な知性が必要です。

しかし、ここで私は自分自身を疑わずにはいられません。他人の「利害」を冷徹に分析し、息子の選択を「正義」と持ち上げている私は、一体どれほど清廉なのでしょうか。

家族の葛藤や自分の窮地を目の当たりにしながら、私の脳内では

「あ、これはブログのネタになる(ФωФ)」

という浅ましい計算が常に弾けています。目の前の「正義」を尊びながら、同時にそれをPV数という「利害」に変換しようとする自分。この二つが同居している事実に、私は戦慄します。

「正義」を掲げて生きようとする私は、一番「マヌケ」で、そして一番「業が深い」存在なのかもしれません。

それでも、私は今日もバスの窓から、無機質な背中たちを眺めます。不条理な世界を泳ぎ切るためには、この「業」すらも燃料に変えるしかありません。怒りも、浅ましさも、矛盾も、全部ひっくるめて前に進む。

それが、私の選んだ生き方です(´∀`)ハハハ

好き嫌い、利害、正義。あなたは今、どの天秤で物事を判断していますか?答えは一つではありませんが、自分の判断基準を意識するだけで、少し生きやすくなるかもしれません。

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